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異なる私の支配脳

いつもと違う頭を使ったからかずっと考え事がめぐり続けて全く頭が休まらない。
考えをまとめるとつまりは諸行無常で、釈迦ってやっぱりすごいと思った。


途中経過。
恐怖って善じゃないか?
熊に襲われる猟師が熊を撃ち殺すことに善悪の観念はない。
しかし熊に襲われる子供を猟師が熊を撃ち殺し助けることはおおむね善行とされるはずだ。
そこに何の差異があるかと考えれば、それは恐怖の有無なのだ。
暴力に曝され、自らの無力に震えるそのことこそが当事者の正当性を保証し、偽らざる正義となり、万人に愛される存在となる。
例えば嫌味なキザキャラが、暴力等に怯えうろたえる様は非常にポピュラーで、それはヘタレとか豆腐メンタルとかジャンル分けされて愛されている。
彼らは恐れ怯えることで弱者であることを魅力に転化しているのだと言える。
ここまでくれば僕が何を考えているのかもうお分かりだろう。
世界を恐怖のどん底に叩き落せば、窪んだ世界は愛で溢れる。
誰彼かまわず怯えさせるだけの強大な力を以って脅し、必要はなくとも定期的に行使し、
人々の精神に強烈なトラウマを植えつけ続ければ、その衰弱しきった人間はたまらなくいとおしく思えるに違いない。
ということを実行せしめんとしたのがかの有名なピッコロ大魔王だ。流石本職の魔王は偉いもんだ。生きてさえいれば世界平和のために尽くしてくれたろうに。
まぁここで終わってしまってはマンガの話になってしまう。
リアルな話をすると、それだと僕から見た世界は愛しいのだけど、他人同士からだと何にも変わらないのだ。これはまずい。
個人が個人を常に恐れるような世界でなければ本当に善徳と慈愛に満ちた世界とは言えない。
単純に生まれた瞬間から拳銃を持っていればそれで済むという話、でもないからやはり世界平和の道は険しい。これでは徒党を組んだもの勝ちだ。
強弱の関係を直線状・円状にするとそういう弊害があるので、やはり無限に続く塔のような強弱が好ましい。
しかしそんな設定を生命というくくりを維持したままで実現できるかというとやっぱりリアルからは遠く離れてしまう。


途中経過から分岐。
一面の花畑、というのはおかしな表現じゃないか。
自分の前方に大きな花畑があるんだったらそう言えばいい。
自分を囲むようにCの字に花畑があるならその欠けた部分は花畑じゃないじゃないか。
そして、大きな花畑に踏み入って東西南北360度の花畑を実現したというならなおおかしい。
今まさに踏み躙っているその花は、その花々が咲いているべきだった場所には、まさに自分が立ったことによって一面が破かれているじゃないか。
その花畑に至るまでの足跡だって残っているはずだ。
見渡す限り一面の花畑には必ず土にまみれ折れ散った花があるはずだ。
でもその踏み躙った足も、踏み荒らした足跡も、月日が経てばまた花畑になるのだろう。
その真ん中で案山子にでもなれば実現できるのだ、一面の花畑は。
足が土になっても立っていられるならば。という但し書きも必要か。